『与えられた環境で、とにかく動け!』㈲ウィルウィンド 代表取締役、
MEMORO「記憶の銀行」 代表 冨田直子さん(4)
【高校時代:東洋英和女学院】
-高校も演劇部ですか。じゃあ、5年間。冨田)高3はないので4年間ですね。
-中高と言えば、多感な頃でもあり、演劇もさることながら趣味なんかも広がっていったのでは?冨田)体育会系の演劇部でしたので部活一色だったように思います。腹筋も200回できましたし、先輩が前を歩いていたら走ってしか追い越しちゃいけない、すぐ後ろに先輩がいたら「すいません!」と言って先に行かせるなど、いろいろな厳しい規則がありました。
-怖い先輩とか。冨田)いましたね。休み時間なんかに先輩に呼び出されて、「あんた達、何で呼ばれているかわかってるんでしょうね」みたいな感じで怒られたりしました。すごく嫌でした。だから逆に自分達が後輩に対してそれをする立場になった時に、自分だけ何も言わなかったんですよ。すると友達から、「何で冨ちゃんは何も言わないの?いい子ぶってる」とか言われる訳です。いい子ぶるも何も、こんなことをしたって何もならないんじゃないの、というのが私の中にはあるからなんですけどね。この時学んだのが、圧政で人は動かせないということでした。
ただ、上下関係という人との繋がり方という点で勉強にはなりました。先輩全員にお礼の手紙を書くとか、そういう風習は良かったと思います。
-家では部活の話はしたんですか。冨田)しましたよ。「今日もまた呼び出されたよ」ってね。
-その時のご両親の反応は?冨田)…、正直記憶にありません。あったとしても、「あらそう」程度だったと思います。
-まあ、ご両親もその話に対して、励ましてあげなきゃとは思わないようなお子さんだったのでしょうね。安心しているというか。冨田)自己完結型でしたね。
-結構淡々と過ごされたんですね。方面的には何が得意で、何を捨ててきたのですか。冨田)古文、漢文、数学、物理。完全にダメでしたね。生物と地学が好きでした。
-解剖とか?冨田)解剖は苦手(笑)。生物は「命のつながり」を感じられる、遺伝子、DNAなんかが大好きでした。地学は悠久の時間の中で作り上げられていく自然、扇状地とかリアス式海岸とか、時間軸を感じられるので好きでした。地図を眺めるのも好きで、「あー、これは三日月湖っぽい」とか想像しながら楽しめます(笑)。
-想像するとか、妄想するタイプなんですかね。結構ゆったりした性格ですか。他人を怒れないってお聞きして、そうかなと思ったんですが。血液型はB型ですか。冨田)そうです(笑)。
それから、高校の間にやったことと言えば、アメリカに2回留学をしました。
-1週間とか1ヵ月ですか。冨田)高1で1ヵ月、高3で1年です。
-それで高校は3年で卒業したんですか。冨田)ですから、1年遅れています。
-でもアメリカに留学って…、いらっしゃったのが7歳までですよね。冨田)英語は一旦全部忘れたんです。それで中学から授業でやり始めて、そこから覚えた単語で話すことができたんです。習った単語だけなんですよ。だからよく言われる、中学の英語だけで日常会話ができるようになるというのは、今でもそれを地でいっているんですよ。
-留学は将来のことを考えて、例えば海外で仕事がしたいということから行かれたのか、それとも何か漠然とアメリカとか英語に対する憧れがあったのか、どうですか。冨田)理由はアメリカへの思いです。ひとつは、小さい時に住んでいた国をもう一回見てみたいという気持ち。もうひとつは、周りに留学する人が少しずつ出てきたことで羨ましいと思ったからです。両親にお願いして、祖父の知り合いの家に高1の夏休みに1ヶ月間行かせてもらいました。両親としては、私は英語もできない訳ですから、その1ヶ月間で懲りて諦めるだろうと思って行かせた訳です。でも、逆効果だったんですね。その時、私は日本のことを何も話せない自分に愕然としました。英語はそこそこ話せたんですよ。でも日本のことが語れない。このままで引き下がる訳にはいかないと思い、高3での留学を決心しました。
-高3の留学は自分の想像通りの意義あるものでしたか。冨田)日本のことをどのくらい伝えられたかと言えば、折り紙くらいしかありませんでしたけど、学んだことは山積み。本当に行って良かったです。
-友達もできたし?冨田)はい。そして孤独も知りました。3,000人のマンモス高に放り込まれたのです。
-日本人は一人ですか。冨田)実はもう一人日本人の留学生がいたんですけど、半年くらいは存在も知りませんでした。そして現地の人たちは何人かが「Hi!」と声をかけてきてくれて表面的にはフレンドリーなんですけど、それだけ。すでに地元のコミュニティができあがっていて、その中に自分は入れなくて、こんなにたくさん人がいるのに自分は一人なんだっていう孤独感を、環境に慣れた2か月目くらいですかね、大勢の人が行きかう学校のホールで突如感じたことを覚えています。その後、部活に参加するようになってから少しずつ友達ができはじめました。
人間関係以外にも学ぶことは多かったです。私は世の中に正義があると信じていて、人種差別はいけないということくらいしか考えていませんでした。学校内で、ある黒人の先生が不正とか問題を起こしていたんです。だけど、学校には何%か黒人の先生を雇用しなければいけないという基準があったので、そのことを逆手にとって、その黒人の先生は「自分のことはクビにはできない」と開き直り不正を繰り返していたようです。この話を聞いた時に、世の中の仕組みの複雑さを知ったというか、ただ差別されている人がかわいそうだとかそういう単純なことではないんだということを始めて学びました。
-日本ではなかなか見えない部分かもしれませんね。冨田)あとは英語を初めて必死に勉強しましたね。教科書いっぱい読んで来いとかいうので。
-相当できるようになったのでは?冨田)もともと、しゃべるのはそんなに問題がなかったのですが、読むために単語を覚えた結果、それまで日本の高校で3つある内の真ん中のクラスだったのが、帰ってきてすぐに一番上のクラスに入れたんです。それまでは、友達に「冨ちゃん、そんなに英語がしゃべれるのに、何で真ん中なの?」と言われていたんですけど。
-いつ戻って来たんですか。冨田)1989年、平成元年。天皇陛下が亡くなった年でした。夏に戻ってきて一つ下の学年に入りました。
-それで受験まで半年ですね。冨田)はい。でも、時期が時期ですから当初から受験をあきらめて留学しました。そのまま上の大学に進めばいいやと思って。でも、帰ってみると周りは全員が受験モード。誰も遊んでくれないし、それで模試でも受けてみようと思って、受けたら世界史なんか1点しか取れませんでした(笑)。
-1点って取るのは逆に難しい(苦笑)。冨田)これはもう、暗記の世界史も一生懸命やらなくちゃいけないんだと思ってやるんですけど、どうしても頭に入ってこないんです。偏差値も50くらいのところから伸びない。やっぱり予定通り受験はあきらめよう、そう思っていたら慶応のSFC(湘南藤沢キャンパス)ができたんですよ。受験科目は英語と小論文だけ。
-待ってました、私のためにできたと。冨田)私の人生、ついてるんです(笑)。まあ、そこも最終的には落ちるかもしれないと覚悟した上で受験しましたけど、結果オーライでよかったです。
-本当にそれで上手くいく人がいるんですね。むかつきますね(笑)。冨田)これをちゃんと世の中に還元しなきゃと思っているんですよ。本当にここまでラッキーで来たので。
(2011年3月1日 渡邊 健)
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